昭和45年10月17日 朝の御理解
御理解 「白紙の部分。」
どう言う難しい問題がありましても白紙に戻してと。云う事を申しますねー。もう過去の事は言わない白紙にしてと。私は今日はそこん所を感じますね。はぐってもはぐっても、白紙の所をそこば頂く。に始めて二十六ページ、二十七ページ、二十八ページは白紙の所と云う所、今まで気が付かなかった毎日を頂いて居るけど。そこから私はぐってもはぐっても、白紙の所を頂いてですいわゆるなる程、白紙になるとゆう事が一番楽な事だと。問題が無くなる。
どう云う例えば信心が無くてもいろんな問題が複雑に、どうにも解決が付かない時には、とにかく一応白紙にしてと。お互いの言い分があろうけれども、それを白紙にしてと。こう、そこから新たな道が開けてくる。白紙にするとゆう 三代金光さまの一番素晴らしい所は、日に日にが新でございます。とおっしゃる私はその信心だったと思います。ね。もう日々が白紙でお有りになったとゆう感じです。
日に日に新で御座います。、こんな素晴らしい事は無い、こんな楽な事は無かろうと。こう思う。問題が無いひとっも。大変な事だと思う。そんなら、楽なとゆう事は、何あーにもしない事かと。例えば、ならお金が沢山あって、物が沢山あって、自由気儘に楽にしとる事かと。と、ゆう事は、実は楽ではない。まあ私共が目差すのは、その楽と言う事なんです。信心によって頂きたいと言うのは、何かと言うと、その楽と云うその最高の楽、それをいわゆる仏教的に言うと、極楽とこう云う楽のもう極まった所。これが楽である。
そう云う、そんなら、極楽と云う所は、どう云う事かと。言うと、はすのうてなの上にちゃんと座っておる事ではないと云う事。なあにもないと云う事ではないと云う事。何あーにも事情もない、食べて行く事にも心配がいらない、何にも心配がいらない。いわゆる、はすの上のこやって座っとけば、百味の御食が目の前に表れて来る、と言った様な事では無いと言う事。もう問題は沢山ある、あり過ぎる程ある。けれどもその問題の全てが神意であり、又は、神愛であり、と悟れる所にあるものは有り難い物ばっかり。過去の事を言う事はいらん。
此れから先も心配はいらない。その日その日が立行けば楽じゃとこうおっしゃる。素晴らしい事ですよね。そんなら、その日その日が立行くと言うのは、しだごだで立行くと言うのではない。それこそ、三代金光さまが三時五十分には、きちっとその七十年間をそれこそ、一日のごとくお勤め抜かれた 四時の御結界のおひけ、それから、一時間の御神前での神様への御挨拶、朝には、朝には朝星を頂き、夕にはもう本当に夕暮れ近い夕星を頂かんばかりの様な御状態が七十年間も続けられた。それでいて、何を申し上げても楽ですとおっしゃるのですからね。金光さまは。
引き揚げて帰って間もなく、北野の先生と御本部参拝した事があった。私は、あの近所に写真屋さんが有りましてね。その写真屋さんが金光様のお写真を頂きたいちゅう訳なんです。それで、その先生がね「お写真を撮らせて頂きたいと思いますがお許しを頂くでしょうか。」と言うてお伺いをしたら、「はい、楽です。」とおっしゃった、それだけじゃった。撮っていいですよいけないですよと。その代わりさあ写して下さいと云うて。その方を向いてポーズを作りなさると言う事もなかった。只なぁんでもない当たり前いわゆるお普段の姿である。
だから、写すならば写しなさい。と云うのですから、こんな楽な事は無いばいと云うですからね。あーたの方ば向いてから写真機の方向いてからニコッと笑われるのでもないのですから本当にやはり楽です。そう云う様なね。例えば、御心境と云うものが何処からどうゆう風にして生まれて来ただろうか。私達金光さまのご信心を頂く者はね。それは成る程、教祖様、二代さま。けれども、それは大変な御神徳家でおありになると同時に、天地金乃神と同根まで教えられ、いわゆる金光教の開祖としての教祖生神金光大神さまの御信心をひた受けに御受けになられた方なんです。
親さまが座っとれば楽じゃ。と、おっしゃった。二代金光様がね座っとけば楽とおっしゃたね、そのひと言を信じられただけである。さあ実際に、座っておれば楽じゃ。と、おっしゃるから、座らせて頂かれた所がひとっつも楽ではなかった。それこそ、毎日毎日が大変な、もう、こんな修行はなかったろうと思いますね。まあだ十三か十四の言わば遊び盛りのいわゆるお子さんがです。朝の四時から夕方の四時迄も、お勤めにならなければならない。座っておかれると云うだけでも大変な事であったろう。だから初めの間は、辛うて辛うてよう泣いた。とおっしゃる。
私は、金光さまの御信心はね、私はそう云う所を神習わせて頂かなければ駄目だと思うね。只、楽な道ばかり進んだってお陰にはならん。日に日に更と云った信心は、そうゆう中からしか生まれてこない。なる程、信心は辛抱する事が一番大切で御座います。御自身がそこを辛抱し抜かれておられて、そうゆう境地に達しておられる 思う事も無くなり、欲しい物も無くなりと何とゆう素晴らしい境地であろうか。そして、有り難うて有り難うて、そのお礼の足りないしかも、お詫びばかりを致しております。と、おっしゃる。そう云う事。そう云う姿勢。そう云う信心。
もう、有り難うして有り難うして、勿体のうて勿体のうて、有り難い有り難いと、言うだけじゃない。そう云うお陰を受けておられるのに。又、そう云う厳しい信心修行なさっておられるのに。信心も出来ませんのに。この様なお陰を受けてと。お礼の足りないお詫びばかりを致しております。と、おっしゃる。なる程、そこからが日に日にが新で御座いますと。金光さまの御本が三巻くらい、「常の御姿」と云うご本が出ましたですね。もう、実に淡々として、上から下へ水が流れる様な御日常ですね。だから、とりわけどうと云う事は、ひとっつも感じられない程しのご本だったですね。
皆様お読みになったでしょうか、こんな厚い本が三部出ました。三回かに出ました。この様な素晴らしい偉大な信心、この様に素晴らしい有り難い信心、と、私共思います。思いますが、そんならそう云う信心がねと、思うて居るだけではいけん。やはり、金光さまの御信心させて頂くなら、そう云う、御信心に神習わして頂く、出来んながらも、言うなら曲がりなりにも。そこを、私は行じさせて頂くと云う事がです。もう、とりもなおさず、金光さまの御信心だと私は直言していいと思う。
自分の都合が有りましょうそれぞれに。けれども、私は、そこん所を精進して行く事が金光さまの御信心、しかも、何んにも無いしこりも無からなければ不安もない、心配もない、と言うて、実際は、日々問題が山積みしている。金光様の所には、お届けをする沢山な、様々な難儀が山積みしてある、それをひとつひとつお取次下さる。皆んがこの様な難儀な問題を持って来るから、私は、もう、かなわん。と、おっしゃる様な所は、もうみじんもない、いつもが更。
御大祭なんかを御奉仕になりますと、あの様な緊張感の中にその焦点になられます。皆さんが金光さまのチラと姿が拝まれると、ずうっと拍手して拝む。と言うて、御自身は、拝まれておるとゆう意識が全然おありにならない様に感じられる。あれが皆から拝まれておると思われたら、もうそれだけでも重荷じゃないでしょうかね。何にも無い、して、あれだけのお祭りならお祭りを奉仕されて、私共が会堂を出てお広前の方へ行くと、もう、ちゃあんと、もう紋付袴に着替えられて御結界に座っておられる。金光さまは二人ござるじゃろうかと云う感じですもんね。もうただ驚くばかり。
だから、私共はそれをね、驚くばかりと言うて、驚いておるだけではお陰にならんのである。そうゆう信心がやはりです。私共の言わば良い手本としてそれを見習わしてもらうとゆう事。私は今日はぐってもはぐっても、言わば二十六ページも無からなければ二十七ページも無い、二十八も何にも無い所を頂いてですね。今日は、どう云う事であろうかと、今日は、御理解がいらんのであろうかと、そう思わせて頂いとりましたらね。合楽のこの「樂」と云う字ですよ楽と云う字の木片の無い所を頂く。
白を書いてこうそう云う字はありませんよね、それだけ頂いた。どう云う事だろうかと思うた。私はそして、今日は御理解を頂いた。お互いが日に日にさらな信心、日に日にさらな信心とは、もうにちにちが白紙になるとゆう事。どの様な難しい問題があって、こんがらがって、もうあわやちゅう様な場合であっても、此処になら男同志の約束とでも申しましょうか、とに角これでは何時迄も解決しないから、一変白紙に返そうじゃないかと。そこから新たな道を求めて行こうじゃないかと。そう云う事を白紙とね申します。
白紙にすると。私共信心させて頂く者は、いつもその白紙に出来けれる信心、昨日は、どの様な事があっても、明日は、又、どの様な問題が控えておっても、今日は白紙である。何故、白紙に出来るか、天に繋がりがあり、地に繋がりがあるからだと、私は思う。言うならば、天地の親神さまの御神意の中にあるからだと思う。私は、今日「楽」と云う字のその、それを頂きましてねそう感じたです。天地との繋がり両方にある糸へんのこうテンテンなやつがあるのは、天との繋がり、地との繋がりと、それがあるからそれに木がつく。木の字を入れる。木は心、そこに心を入れる。そこに楽になる。
どの様な事であっても、それが御神意だ、御神愛だと、分からせて頂く所にです。楽とゆうのは、その様な事。いや、極楽とはそう云う様な事。「はい、楽です」と云う事なのある。どの様な問題を持って行っても、楽です。写真を一枚頂きたい、はぁどうぞ写して下さい。と言うて、ポーズもお取りにならない程しに楽な事なのです。お写しになるなら、どうぞ何処からでもお撮り下さい。とゆう姿勢である。あなたの方が忙しいのに、ちょいと向いてやらんならん、と云うのは、楽じゃないですよね。こげん忙しかのにちょいと待って下さい。着物着替えてきますから。なんておっしゃらん。
ありのままいわゆる常の御姿とゆうのがそれなんです。三代金光さまの場合ね。そこで、私共は、そう云う生き方をですね。及ばずながらも、至らぬながらも、それを見習わせて頂くと云う事。日々が白紙になれる程しのです。更な心で信心が出来る程しのお陰を頂く為にはです、やはり、初めの間は、辛うて辛うて泣きましたと、仰せられる所をです。私共は、シッカリ私共は今こそ頂かなければならない時ではなかろうか。
親さまが、座っておれば楽じゃと仰せられるから、座っとりましたけれどもひとっつも楽ではなかったとゆう訳なんです。座っておれば楽じゃ。辛抱して座っておれば必ず楽になれる。と、四神さまも教えられたのでしょう。二代金光様はね。お父君がそう、こうおっしゃられたのあろう。そうゆう厳しい御信心の御修行をなされておられたら、思う事も欲しい事も無くなっておいでられる境地、いわゆる我情我欲が抜けて行く所の姿、そこには、あるものは有り難うして有り難うしてと云う事である。
有り難うて有り難うて、しかも、そのお礼の足りないお詫びばかりを致しとりますと、おっしゃる、それなんです。申し上げますと、そのやうな事になりますけれども、それが、私は、今日のこの白紙の中から頂かせて頂くものはそれだと、こう思うのです。お前たちが願い求めておる事はどう云う事かと、私共が求めておるのは、言わば楽になりたいと云う事なのである。しかも、只の楽じゃあない、極楽である。そんなら極楽とは、蓮のうてなの上にちゃあんと座らせられておる事が極楽かと言うと、そうではない。お金があって、物があって、沢山の人にかしずかれて生活をしておる事が楽ではない。
様々な難がある、様々な問題がある。その問題の中にあって、楽を感じさせて頂く。その楽こそが信心で頂かせて頂くと云う所が極楽である。そう云う何を求めての信心か、私は、楽を求めての信心だと、そこで、楽はせんぞと云う気にならせてもらうと云う事がです。私共の修行の姿の中にあらなければならない。これ一丁、片づけたならいっちょ温泉になっと行こうかと云う様ななものではない。もう楽はせん。とこう決めさせてもろうてです。させて頂くところの楽、それが極楽である。
だから、金光さまの御信心すりゃ、温泉にも行けない。芝居にも行けない。とゆう事じゃ決してないのですよね。させて頂く、言わば行かせて頂く。温泉であり、お許しを頂いて行かせて頂くお芝居である。その時がそれは、合掌して受けるのですから、これが極楽。日に日に更と口で云う事は、容易な事ですけれども、やはり、日に日に更な生き方をさせて頂く為に、私共は、信心修行させて頂いておると云う事になります。口だけそんなら、白紙にしょうかと言うて、白紙にしても心にしこりが残っておる。それでは、白紙に返ったとか、白紙にしたと云う事にならない。
毎日毎日がそれこそ、泉の様に湧いて出てくる、清水の様なもので更なものが湧いてくる。有り難うして有り難うしてと云うものが湧いてくる。その有り難いと云うもので、一切が清められる。そこには、問題が無くなってくる。問題はある。けれども、問題がもう問題で無くなってくる。問題ではない。それは、神意だ、神愛だと、神様のご都合だと云う事が分かって来る。そこに頂けるのが楽な心。
今日、私、御神前でこれは、今も昔も同じ様ですね。役者が演技の一番難しい演技は、泣き笑いと云う事を言っております。泣き笑いが出来たら、もう一人前の役者だと。 昔のあの歌舞伎には、この泣き笑いと云う場面が沢山あります。仲々やっぱり難しい。だから、それが見事にやってのけられると又見事。やっぱ現代のそれでも同じ事が言えるのじゃないでしょうか。泣くとと笑うとが一緒ですから、やっぱり難しい。そう云う演技は大変難しい。その泣き笑いをするところを幾場面でも頂くんですよね。
泣くと云う事は、苦しい事だと思うんです。だからやはり悲しい事に直面致しますと、やはりやっぱり悲しいですから泣きます。けれどもね神意が分かる、神様の御都合が分かる、神様の御都合が分からせて頂くと、そう云う深い御神意があっての事だったのか。そう云う深い御神意の中にあっての事だったのかと分かる。そこからね今まで泣きよったそれがです。今度は有難涙に暮れるなければならない程に有り難うなって来る。
だか。信心の上でもやっぱ、この泣き笑いが一番難しか様ですね。本当にそこの神意が悟れなきゃならんのですから。御神意を悟らせてもらう。そこから、私は例えよし それはなる程、叩かれれば痛い。けれども痛いけれどもね、神意が分かる所に叩かれて痛いけれども又、その手にすがっていかなければ居られないのであり、そこから有り難いものが頂かれるのであり、そこまで信心をこう極めて行かなければいけん。
二十六ページ、二十七ページ、二十八ページと云う所は、全然無い。初めて今日ここに気付かせて頂いた様に、私共は、楽と云う事はね、その様な事だと気付かせて頂く所から、日々を更なしかも日々をです、どの様な事があっても白紙にして行けて、あくる日は又、そこから新なそれこそ、清水が湧く様に、元気な心が頂かせてもらえる生活があるのじゃないかと、こう思うのです。
それを改めて今日気付かせて頂いたと云う様に、三代金光さまの事を思わせて頂いたら、本当になる程その通り文字通り、日に日にが更の御信心を七十年間お続けになられた。そうゆう素晴らしい生きた手本が、私共のまじかにあったとゆう事。私共、その信心を頂いて来たと云う事。そう云う言わば、訓読をを受けてきた私達なのですから。そう云う金光様の信心をそのままにとはいけなくても。
私共の日々の生活の中に曲がりなりにも、それを頂かせて頂こうと云う生き方こそです。白と云う字の両方にある糸偏がです。天につながり地につながる。神様天地の中にこの様な働きを頂いて、その神様の御守護の中にこの様な事があっておるんだと分からせてもらう時に、それはどの様な苦しい事でも、泣き笑いが出来るおかげが受けられる。そう云う気になる所に<楽>がある。そう云う<楽>を私、極楽だと云うだと思いますね。
どうぞ。